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【石雲堂の沿革】

The history of

sekiundo

 

文久の頃、*見先原(みさきばら)は大森銀山飢饉の折、石見国邑智郡沢谷村字千原(現島根県邑智郡美郷町千原)にて庄屋を勤めており、借米に力を尽くしその功績を認められ、文久2年(1862)、もともと『紙田』だった姓を改め、『神の田』として苗字神田性を授けらました。その後6代見先原亀助の三男倚太郎(よりたろう)が、明治30年(1897)11月平田町にて分家。明治34年(1901)1月キツと結婚。長男静雄、長女秀子、次男恒夫を授かる。*恒夫は昭和17年(1942)病気にて早世。明治39年(1906)6月25日付古物商業許可証を得て平田中町に於いて初代石雲堂として、書画骨董商を始めました。石雲堂という屋号は倚太郎(石見)とキツ(出雲)の出身地より一文字ずつ合わせ「石雲堂」と命名。大正4年(1915)杵築小路(現在の西町)へ移転、大正12年(1923)平田市場990へ移転しました。現在の石雲堂看板及び印譜の書体は大正14年(1925)鐡厓によるものであります。

大正から昭和初期にかけ旧家売立入札が活発になり名品を数多く取扱う事になりますが、昭和15年7月不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止する省令奢侈品等製造販売制限令が発令、さらには昭和16年(1941)太平洋戦争が勃発、美術品は贅沢品のため極めて取扱いが困難となります。そして昭和17年頃戦局が悪化すると、2代静雄は工兵(土木作業員)として九州(熊本県人吉市)へ赴任。昭和20年(1945)終戦の報が届いた折には嬉しさのあまり一晩で十三里(51キロ)徒歩で移動したとの記録もあります。その後当面平田郵便局に勤務することになりますが、後に家業を再開。茶人としても知られる松江藩7代当主松平不昧公のお膝元という事もあり不昧流関係を始めとした茶道具類に力を注ぎ、また静雄自ら茶室を設計するなど積極的に茶道文化の発展に邁進しました。

後、昭和43年(1968)市場989-12に移転現在に至ることになります。

*見先原・・・神田家の歴史参照

 

【石雲堂歴代】

Each generation of  Sekiundo

 

□初代 倚太郎(よりたろう)

慶応3年(1867)〜昭和24年(1949)

 

□2代 静雄(しずお)

明治36年(1903)〜昭和56年(1981)

 

□3代 一(はじめ)

昭和17年(1942)〜

 

□4代 慎一(しんいち)

昭和48年(1973)〜

*倚太郎が売立の札元を務めていたことがわかる

(静雄覚書より)

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*創業時より、現在も大切に使用している帳面箱。

倚太郎直筆で購入年が記されています〈明治37年(1904)10月〉

*恒夫(左)と静雄(右)

 大正11年(1922) 頃撮影

*青年時代の静雄 

​ ​美術商仲間と共に(左端)

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*青年時代の静雄 

​ ​美術商仲間と共に(右から2番目)

*大正15年、昭和元年頃(1926) 頃撮影

御大典記念時の本町通り(現本町商店街)

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*昭和8年7月『天満宮奉納一式飾り』

 【飾宿】神田倚太郎

一式飾り…夏祭りに行う民俗行事

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*昭和30年代後半~40年代前半

 平田町航空写真(赤矢印が当時の石雲堂

現在の場所は矢印上の白い建物(旧平田信用組合)付近

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*恒夫(昭和17年歿 享年32歳)

*静雄(昭和56年歿 享年79歳)

*現在の神田家

​一(左端)、慎一(左から2番目)

*茶道裏千家第16代坐忘斎御家元(中心)と共に

慎一(左) 妻 栄里子(右)

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